平凡学徒備忘録

自分が思い付いたことを忘れないために書いていきます。経済学専攻の大学生。

お金の奴隷解放宣言はなされるべきか?第3回 貨幣の客観性

前回は、貨幣によって価値が保蔵されない社会は、物の流通が滞り、貧困に陥る可能性について検証した。検証過程については詳しく見ていただきたい。

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今回は、感謝社会の持つもう一つの問題点について考えていく。

その問題点とは、十分なお金や購買意欲があっても、それを手に入れることが保障されない、つまり、欲しい人に優先的に財、サービスが届けられないということである。

 

勿論、貨幣社会でだって、お金はあるのにどこもかしこも売り切れ御免ってことで、欲しいものを買えないといった事は起こりうる。しかし、品切れが続出するような商品は、大抵の場合生産者によって増産されるので、品不足は解消される。が、感謝社会では、前回検証したように、商品を作ろうという動機が人々に無いので、増産がなされず、品不足は解消されない。

優先的なサービス提供がなされないのは、自分が何かを作り出すのにかかった労力とその価値が、相手に正当に評価されないということに起因する。何故ならば、貨幣社会では金額という形で存在した価値や労力を表す客観的な値が、感謝社会では存在しないからである。

これは生産者、消費者双方にとって大きな損となる。絵本の例を引き合いに説明してみよう。

現在、本を買うために2000円を持っている人が2人いると考える。そして、一人は例の2000円の絵本を買い、もう一人は買わなかった。2人の違いは何だろうか?

その人がその本に感じる価値の違いである。2000円を払っても読んでもいいと考える人は払うし、特に欲しいと思わない人は払わない。つまり、自分の感じる価値を決済という形で示しているのである。この仕組みのため、より欲しいと思う人に優先的に商品が届く。

どうせ物をあげるなら、それを得て最も喜ぶ人にあげた方が、生産者、消費者双方にとって喜ばしいのは自明と言っていいだろう。例えば、あなたが誰かに物をあげるとなったときに、「ふん、もらってあげてもいいよ」と言われるのと「すごく嬉しい!ありがとう!」と言われるの、どちらが嬉しいだろうか。もしかしたら状況によるのかも知れないが、大抵の人は後者だと答えるだろう。これが感謝社会では実現しにくくなると考えられる。そして、これが実現されないことは不幸を意味する。

例えば、時間を持て余して暇をしていたAさんと遠路はるばるやって来た絵本コレクターのBさんという2人の人物がおり、N社の絵本が残り1冊になってしまった状況を仮定する。

AさんがN社の前を通りかかる。さほど絵本が欲しいわけじゃないが、暇つぶしに読むかと考える。ここでN社の本は売り切れである。とすると、遠路はるばるやってきたBさんは絵本を入手できなくなってしまう。これは喜ばしいことだろうか?必要なものを得られるかどうかが、自分の経済力や財に感じる価値ではなく、住む場所や運で決まるというのはかなり不公平で非効率的ではないか?

この例は極端かも知れないが、要するにより欲しい人のところへ商品を優先するには、何らかの形で優先度を分ける仕組みが必要だということである。そして、この優先度分けの機能を果たすのが、貨幣であるというわけである。

恩は貨幣の代わりにはなりえないし、無理に代替させようとすると、逆に生きづらく、心苦しい社会になりうる。「あの時あれをしてやったのに…」とか「自分はこれだけのことをしてやったのに、何も返さないのか、嘆かわしい」とか「自分はこれだけのことをされたのに、何も返せない。なんて最低な人間なんだ」といった考えを持つ人が現れても不思議ではないだろう。つまり、どういった行動が、それを与えられた側にとってどのくらいの価値を持っているのかが人によって異なるのである。

例えば、相手の為に作ってあげた絵本に、ある人は大きな価値を感じるが、ある人にとっては小さい価値、もしくは迷惑を感じさせてしまうかもしれない。後者は「もらってやってるんだ」という心情すら抱いてしまうだろう。このように、恩で物を回そうとすると、恩着せがましい人が増えることとなり、これは新たな息苦しさに繋がっていく。

だが、貨幣には客観性がある。1000円札は誰がどう見ても1000円札であり、人によって額面の値が変わることはない。貨幣によって、人は自分に与えられた価値を客観的に表す事ができる。この性質によって、見知らぬ人とも取引が可能になる。

加えて、貨幣があるからこそ、自分の売りたいものと相手の買いたいものが一致し、取引が成立しやすくなる。例えばパンがほしいと思ったときに、まずパンを作ってくれる人を見つけなければならないが、見つけた後が問題である。物々交換の社会では、パンを得るには、パン職人が欲しがっているものを持っていなければならない。例えばパン職人がトマトを欲しがっていた場合、トマト農家を見つけてトマトを譲ってもらう必要があるが、そこでもまたトマト農家が欲しがっているものが何かを聞き、調達しなければならない。いつになったらパンを手に入れられるのかわからない。

しかし、今そのような事態が起きないのは貨幣が存在しているからである。貨幣社会ではパンを得るにはお金を払えばよく、パン職人は得たお金で自分の欲するものを買うことができる。貨幣を仲介役とすることで、自分の望むものを得るコストが格段に減った。これはパンやトマトの価値を金額という形に一元化した結果、モノを「モノと交換できる紙」と交換できるようになったからである。このように、貨幣には客観性と一般性があるため、人々は効率的にモノを交換できるようになり、社会は発展した。

 

今回は炎上案件をきっかけに、貨幣社会並びに貨幣そのものの性質を考えてみた。

確かに、世の中すべてのやり取りに値段をつけ、貨幣を媒体にやり取りするべきであるとは言わない。金がない人には何も与えないという社会もかなり息苦しいものである。だからこそ人はボランティアをするし、見返りを求めない行動に賛辞を贈るのだろう。

しかし、だからと言って貨幣を否定すると、それはまた別の不公平や不満をもたらすことになる。一部の利益だけを考えると、全体の利益を見失ってしまうということを今回の炎上案件は示しているように感じた。印象のみで判断するのではなく、普段何気なく利用しているシステムの意味に、改めて目を向けていこう。