平凡学徒備忘録

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経済学講義:市場の原則と市場の失敗

経済学とは、財、サービスがどのように、どれくらい取引されるのかについて考える学問である。そういった取引の場を市場という。この市場というものはスーパーマーケットのように具体的な場所である必要は必ずしもなく、ネットオークションのような形もとりうる。

基本的に、取引は多くなされる方がよい。何故なら、ある人の間で取引が成立したということは、それによって売り手も買い手も互いに得をしたということを意味しているからである。

 

例えば、Aさんがトマトを作ったとする。ある程度は自分で消費するが、余りが生じてしまう。長くは貯蔵できないので、放っておくと腐ってしまう。そこに、お金を持ったBさんが現れ、丁度トマトを欲しがっていたとする。

この場合、AさんとBさんはトマトの売買取引をしたほうが、双方にとって得である。何故なら、取引をしなかった場合、Aさんに残されるのは腐って使い物にならないトマトだけだが、取引を通じてお金を得れば、トマト以外の欲しいものを入手できる、つまり、Aさんの満足は増える。Bさんにしても、お金を失う代わりにトマトを得て、それを食べて満足を得る。やはりBさんの満足も増える。

そしてこの例の注目すべき点は、A、Bともに自分の利益の為に行動して、結果的に二人とも満足しているということである。Aさんはトマトをお金に換えることで利益を得るし、Bさんもお金を払ってトマトを食べることで利益を得る。何もAさんが利他的な慈善事業主である必要はないし、Bさんが清貧を心掛けている必要もない。むしろどちらも利己的であるからこそお互いに幸せになっている。

また、Aさんがいくら利己的であるからといって余ったトマトを異常に高い値段で、例えば5000兆円で売るということも起こらない。何故なら、Bさんも同じく利己的なので、そんな値段を提示されたら他の場所で買ったほうがよいと判断し、Aさんからは買ってくれなくなるからである。このようにAさんは判断するので、利己的なAさんは、Bさんにとってリーズナブルな値段でトマトを売ることになる。

このように、利己的な人間が自分の利益の為に自発的に、自由に取引すれば、基本的には社会全体の満足度は増える。そしてこのような市場のはたらきを、経済学の祖であるアダム・スミスは「神の見えざる手」と称し、市場を自由に任せるべきという自由放任主義(レッセフェール)を説いた。規制緩和や自由化、民営化を訴える人たちの根拠は大体ここにある。

ちなみに経済学ではこの満足を効用と呼び、市場取引を通じて社会全体の効用がどれくらい発生したかを考えることが経済学の役割となるのだが、この効用自体を具体的な数値で正確に表すことは不可能である。というわけで、実際にある市場を分析する時には、取引額に注目することとなる。

 

しかし、世の中には効用をもたらさない取引や、本当は取引がされるべきなのに行われないといったことが起きる。ここでは、前者を「不快な取引」と、後者を「取引の失敗」と呼ぶことにしよう。このような現象を、市場が社会全体の効用を最大化することに失敗してしまうという意味で「市場の失敗」という。

不快な取引の例としては、公害が挙げられる。例えば、ある工場がある製品を作る過程で、環境汚染物質を発生させてしまうとする。製品の売買取引自体は社会の効用を増やすが、その一方で生産過程において環境への害が発生するので、害を受ける人にとっては取引は少ないほうが望ましい。

ポルノ商品なんかも、それが取引されている事実が不快感を与えるという意味で不快な取引と見なしてよいだろう。また、金銭でやり取りされることに不快感を感じる人がいるという場合も不快な取引と言える。腎臓移植はその例で、アメリカでは腎臓を売買することは禁じられている。お金がないからといって自分の腎臓を売る行為は、それが誰かを救うことにつながるとはいえ、不快感を与えるだろう(その代わり、ドナーとして無償で臓器提供することは認められている)。

 

取引の失敗の例としては、中古車販売市場の例が挙げられる。メンテナンスがよくされていて良質だが高価な中古車 O と、高価で粗悪品な中古車 P、安価で良質な Q、安価で粗悪な R が出回っている場合を考えよう。こんな市場で、利己的な経済主体の自発的な行動に任せたらどうなるか。

整備士など、車について知識がある人は別だが、素人には実際にしばらく乗ってみない限り、それぞれの質の違いが分からない。運が悪ければ Pを掴まされることだってあり得る。買う前に車の質が分かればよいのだが、素人が車の質を予め見極めるような知識を得るのには高いコストがかかる。ということで消費者はPを買いたくないので、結果として Oや Qのような確実に需要がある車が取引されないままとなる。取引に値する車が売れ残っているのは実に勿体ない話である(ちなみにこの例は、実際に切って中身を見なければ質が判断できないレモンに因んで、レモン市場と呼ばれる)。

 

このように、市場はいつも社会の効用を増やすわけではない。利己的な経済主体の自発的な行動に任せてしまうと上手くいかないケースはいくらでもある。次に、そんなケースに人々はどのように対処してきたかを見ていこう。

不快な取引市場については、企業は公害によって社会が被るコストを考慮しないために生産をし続けてしまうのが問題であった。しかし、じゃあ公害を0にする、つまり全く生産しなければいいかというと、製品が全く作られないことになり、その製品から得た効用も0になる。

というわけで、丁度いいくらいの生産量を求めることが必要になる(いくら化石燃料が環境に悪影響だからと言って、火力発電所を全て止めるわけにもいかないでしょう?)。この性質を踏まえて、環境税をかけることが効率的だとなる。今まで社会が負担していた費用を企業に負担させれば、ある程度は生産量を減らしてくれるはずである。

 

取引の失敗については、車の質が分からないため、値段に見合った車を得られないことが問題であった。このように、売り手と買い手など、2者の間で持っている情報に差があるとき、その差を「情報の非対称性」という。 そのため、情報の非対称性を無くすことが解決策となる。その結果導入されたのが車検制度だ。車検を通して車の品質が保たれていると分かれば、Pのような粗悪品をつかまされることもないので、安心して取引ができる。

 

このように、基本的には神の見えざる手に従うことで人々は効用を得、社会全体の効用は最大化される。しかしながら、その手に邪魔されて動けなかったり、ビンタされることも実際には起こりうる。そういった場合に、どういった損失がどのように発生しているのかを見極め、適切な対処をすべきである。経済学はそれを考える学問なので、興味を持った方は是非とも学んでみてほしい。

 

(補足)

講義と銘打ったからには課題も出しておこう。答えはリプ欄に記入してほしい。

問題:以下のうち、市場の失敗といえるケースはどれか。理由とともにリプ欄に記入せよ。

1 ある商店街の近くにショッピングモールができ、その影響で商店街に通う客が1000人減ってしまい、商店を経営してる人が困っている。

2 住宅街の近くにスポーツ場ができ、近隣住民が騒音被害に悩まされている。

3 遠くから進学してきたタナカ君は、パンフレット情報のみに頼ってA高校を選んだが、実はそこは問題だらけの高校で、入学早々転校するか悩んでいる。