平凡学徒備忘録

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無条件で現金配布、あなたは働きますか? 第3回~シンプルな支援、シンプルな政府~

 

2回に渡ってベーシックインカムを軸とした社会保障について述べてきた。前回のはこちら。

 

usamax2103.hatenadiary.com

 

シンプルな政策にすべき単純な理由

前回述べたことをまとめると、「貧困とは単なる人格の欠損ではなく、お金の欠乏だ。複雑な支援プログラムではなくシンプルな社会保障」ということだ。現実社会、人間心理は複雑だ。しかしだからといって複雑なプログラムが必要なわけではなく、シンプルな政策でも、具体的な案にする際に厳密な検証を必要とするというだけの話である。

 

シンプルな社会保障対策は、まずその受益者にメリットをもたらす。前回述べたが、貧困層にとって、社会保障を受けようと行動することはかなり大変である。

 

欠乏状態がもたらすストレスによって知能が低下している中、更に頭を使う余裕はない。だから貧困対策プログラムはこの上なくシンプルに行われるものでなくてはならない(もっともこれは貧困対策に限らず、あらゆる政策について言えることである)。

また、シンプルな政策は受益者だけでなく行政側、そして納税者にもメリットをもたらす。受給資格の審査、必要書類の確認、実施、受給者の監視。これらの維持管理コストが、「国民すべてに無条件で一定額を配布する」という生活保障の内容に変えることで必要なくなる。そうなれば納税額が安くなる。単純な話だ。さらに、納税者もBIの対象者であるため、現在の社会保障よりもより公平である。

前々回記事でイギリスでのホームレス支援の取り組みについて言及した。このプログラムの前にも貧困者への支援対策が行われていたが、その費用は一人当たり約30000ポンドであった。勿論この額が一度に与えられたワケではないにしろ、これだけの費用が投じられてきたのにも関わらず彼らはホームレスのままであった。しかし、その10分の1以下の費用で、彼らは路上生活から抜け出したのであった。つまりこの例からは、BIはかなり安上がりな社会保障であると言える。

 

 思い込みに反するデータを受け入れる

ただ、BIについて真剣に考える風潮はまだまだできていないといえる。政治家や官僚だけでなく、各種論壇でもまだ「働かざる者食うべからず」のドグマや「BIは人を怠惰にする」という思い込みを捨てきれない人が多いからであろう。思い込みに反する実証データというのはなかなか受け入れられにくいものではある。

その例として「ヤバい経済学」で一躍有名となった経済学者コンビ、Steven D.LevittとStephen J.Dubnerが書いた「0ベース思考」という本にて、大手小売業の重役との話がある。

 

0ベース思考---どんな難問もシンプルに解決できる

0ベース思考---どんな難問もシンプルに解決できる

 

 

この会社は広告の効果を検証したいとのことで経済学者たちに相談を持ち掛けた。その予想を聞くと、重役たちはCM放映時の売り上げデータとそれ以外とを比較して、大体4倍ほどの効果があると見積もっていた。

しかしこのデータには裏があった。CMを流していたのはブラックフライデー(11月の感謝祭の翌日)、父の日、クリスマスの3日であり、つまり1年の中でどこもかしこも賑わう時期なのである。要するに、4倍の売り上げは広告ではなく単にシーズンの賑わいによってもたらされた可能性がある。

ここに目を付けたLevittは、ランダム化比較実験というのを持ち掛けた。今回の例でいえば、市場を広告を打つグループと打たないグループに分けて売り上げを比較し、統計処理を施すのである。

その時重役たちは実験実施に大反対したが、同時に、昔に広告を打てずに大慌てしたことをこぼした。つまり、実験を行わずとも過去に比較実験の好例があったのだ。その時の実際の売上データを分析したところ、広告は別に売り上げに貢献していないことが明らかにされた。毎日ポストに投函されるチラシに目を通す人などどのくらいいるのかを考えれば分かることである。

だが、このような好例に恵まれ、いいフィードバックが得られたにも関わらず、会社の重役は結局「広告は売り上げに貢献しているはずだ。途絶えさせてはいけない」という思い込みを捨てきれなかった。その後もずっと無駄な広告費を投じ続けているそうで、何とも笑えない話である。

 思い込みを捨てよ、データを見よう

同じようなことが今の日本社会のあらゆるところ、政府部門や第3セクターだけでなく会社組織などで起こっているのではないだろうか。つまり、今持っている思い込みを捨てきれず、有益なフィードバックを役立てられない、実証的な分析がなされない、正しいことを言った人がバカを見て無視されているといったことが蔓延しているのではないだろうか。

本当に良い結果を得ようと思うなら、まずは思い込みを捨てて、実データに向き合うことだ。勿論整った環境で行われる、データの整理もしやすいキレイな実験が常に行えるとは限らない。その際は過去の理論や似たデータから演繹するなどの手段がとられるだろう。

 

BI導入を目的としたもののみならず、政策立案に向けて様々な社会実験が行われ、正しい結果が得られることを望むばかりである。経済学などの社会科学は、基本的に実験がたくさん行えるものでもなく、また、観測されているという自覚が被験者の行動に影響を与えやすいので、実証的な研究が行われてはこなかった。しかし、行動経済学の登場やデータ分析手法の進展とともに、実証分析の手法がどんどん開発されてきている。自然科学は理論と実験の積み重ねによって今のように発展してきた。社会科学も同じような発展モデルを参考にしない手はない。

 今必要な政府とは、大きなバスケットではない

さて、思い込みを捨てて現実に向き合うことは大事だ。各種実験がBIの有効性を示唆している。だからその実現を視野に入れた議論が不可欠だ。そして筆者個人としては、BI導入に向けた議論が、政府規模縮小に向けた動きに発展してほしいと願っている。

行政の仕事が増えるとそれだけ大きな組織が必要になる。そしてその活動の中で、政治家や官僚も、私人と同じく人であるため、絶対に自己利益を追求する。これは社会的損失を招かない限り別に問題はないのだが、実際は上手くいかない。大抵いたずらに仕事が増え、その割には何も解決されず、社会的余剰が損なわれる結果になる。

行政組織の巨大化は、勿論税負担の増加をもたらす。現在、財政健全化の名のもとにどんどん増税が行われている。それに納得してしまう人が出てくるのも当然だ。

しかしこれでは老若男女問わずすべての国民が疲弊し、結果国全体が衰退することになりかねない。この状況は勿論現与党に責任があるし、野党にも、過去の国政運営にも責任がある。ただ、じゃあ現与党を野党に変えれば問題が解決するかというと、それもかなり考えにくいだろう。

ならば単純な話で、財政健全化の為に、政府規模を縮小すべきなのである。規模が縮小すれば当然必要な税収も減り、必要な税負担も減る。現在、勿論この規模縮小についての議論も行われているだろう。しかし、それらは大抵規模縮小を名目とした弱者切り捨て、投資の削減、目的を見失った収支合わせを目指すだけのもので、既得権益を守るためだけのものはないだろうか。

必要なのは、大規模な政府を作り、恐らく存在しないであろう誠実で、常に国民の生活を考え、適切な運営を行うような完璧で理想的な政治家を待つ事ではない。どんなに優れた人格者であっても、政治という権力争いの世界では手段を選べず、人が変わってしまうだろう。それに、最適な政治判断などその時に分かるはずがない。政権の判断一つで国民全体の生活が大きく左右されるようなことは望ましくないはずだ。卵は一つのバスケットに入れるべきではないのである。

必要なのは、政府規模を縮小し、国民の生活リスクを分散することである。多様性がその集団の発展に大きく貢献することは、何も自然界だけの話ではなく、人間社会にも言えることだ。

勿論、小さな政府がBIを導入するというのは矛盾しているようにも思えるかもしれない。それに、崩壊しないようなBI制度、そして仮に崩壊してもリカバーできるような対策は常に考える必要がある。が、少なくとも今の社会保障よりは小さな規模になるはずだ。何はともあれ、小さな政府に向けた議論もなされるべきである。

 

今回も長くなったのでここまでとする。次回は、BI導入に向けて議論されるべき点について述べていく。