平凡学徒備忘録

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社会科学はインチキか?~問いの立て方と工学~

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こんなツイートがバズっていた。

 こういった揶揄は社会科学批判としてよく挙がるものであり、リプライ欄でもこのツイートに同意し、社会科学はインチキだ、経済学者はインチキだというツイートが見受けられた。

まあ気持ちは分かる。TVをはじめとした各種メディアに出てくる経済学者、社会学者がよく分からない単語を羅列したり、常識はずれな事を言ったり、目にあまる言動をしているのを見かけると、学者というものに胡散臭さを感じてしまうだろう。それに加え、例えば政府の打つ経済政策は経済学者の意見を取り入れてるはずだろうに、一向に経済が良くなる兆しが見えない。こういった実感を元に判断すると、どうもケーザイガクなるもの、ひいては社会科学というものは信用ならんとなってしまう。文系学部廃止論もこういった不信感が背景にあるのだろう。

 

 

だが、TVで見かける学者がおかしいからといって、経済学をはじめとした社会科学という学問群は思い込みや自分の価値観でどうにでもなってしまうような紛い物だと判断するのはいかがなものか。 

メディアに登場したり、政府に招かれる学者は、基本的に「どうすべきか」を求められる。よって学者のコメントは「○○という問題を解決するには××という手段を取るべきである」といった感じになる。

ただ、メディアで意見を述べる場合は、特に朝生とかの討論番組では、議論がどう展開するかなんて予想ができないので、前もって必要な情報を十分集めることはできない。加えて時間も限られているので、思考リソースを割くような余裕も、その妥当性を検証する時間もない。よって当て推量に頼ったり、バイアスがかかってしまうものになってしまう。また、専門用語を使われても視聴者や他の共演者が分からないし、そもそも厳密さや科学的に検証された正当性なぞ気にしないので(むしろ煩わしくて忌避するかもしれない)、結果学者が頓珍漢なことを口走ってしまうのも仕方のないことだろう。討論番組は所詮エンターテインメントだと言ってしまえばそれまでである。

 

また、先ほど挙げた画像の社会学者や、メディアに登場する学者を元に社会科学を批判する前に押さえてほしいのは、理学と工学の違いだ。

この違いについては以下の記事で触れているが、ざっくり違いを説明すると、理学は「である」学問であり、工学は「する」学問である。

 

usamax2103.hatenadiary.com

理学における問いの立て方は「何故こうなのか」であり、現実に起こっている現象を説明するものである。一方で、TVのコメンテーターに求められる「どうすべきか」といった疑問に答えるのは工学である。イデオロギーやそれぞれの価値観は、解決策の方向性を決める、いわば設計思想のようなものだ。なので、始めに挙げたツイートで揶揄されている学者は、問いの立て方を勘違いしているといえよう。「現実世界を修正すべきだ。それはこういう立場からのものであり、修正方法に関する私の理論はこうだ」という議論は完全に工学の話である。

理学と工学の差異について、自然科学で考えてみよう。例えば「この物質はどういった性質を持つのか」「どういう構造をしているのか」といった問いは理学のものである。この問いに答えるべく、理論が編み出され、実験によってその理論の妥当性が検証され、数々の批判を通じて正しい(と思われる)理論が作られていく。

そして「こういった製品があればいいのに」といった需要に応えるべく、「その製品をどうやって作るか」「もっと生産コストを下げられないか」を考えるのが工学である。ただ、「Aという方法は上手くいってるのか否か、そしてそれは何故か」という疑問は理学のものである。

これを社会科学、例えば経済学に置き換えると、「企業や消費者はどのように行動するのか」「何故豊かな国と貧しい国があるのか」といった疑問や「ある政策が望むような結果を得られたか否か、そしてそれは何故か」という疑問に答えるのは理学の領域である。「どうすれば不況を抜け出せるのか」「政策実施コストを引き下げられないか」というのは工学的な疑問である。実際に社会工学という名を関する学部、学科のサイトに訪れてみると、現象理解よりも問題解決に主眼を置いているのがわかる。

"つくばの社工"とは|筑波大学 理工学群 社会工学類

 

このように考えていくと、「どのような政策を打つべきか」というのは工学的な疑問であると言える。物理学における工業製品、医学における治療のようなものである。従ってそれが上手く機能しない原因には、勿論基づいている理論そのものの欠陥も考えられるが、設計ミスもあるし、見落としている点があったり、実施段階での手違いがあったりと色々考えられる。すなわち、経済政策がダメ=経済学がダメという図式は必ずしも成り立たない。

インチキ臭い学者やその失態を見て、学問そのものや研究することを否定するのはあまり賢くない。プロダクトの出来の悪さが、即座に学問の確からしさの否定には繋がらないはずである。爆発するスマートフォンを例にあげて物理工学、化学をインチキだと否定する人や、医療事故を元に医学部を廃止する人はいないだろう。それと同じで、経済政策の出来の悪さを挙げて即座に経済学を否定するのはお門違いであると思う。

 

さて、メディアで見かける学者たちの言動から、すぐに社会科学がインチキであるという結論に至るのは早計であると分かってもらえたと思う。しかし、とはいえ、そこですぐに社会科学は自体は正しいと判断するのも同じくらい早計である。先ほど触れたように、基づいている理論が間違っていることは大いにありうる。例えばこの本では過去に行われた医療行為の中で、現代では考えられないものを取り上げている。

「最悪」の医療の歴史

「最悪」の医療の歴史

 

 

ここで紹介されているものは実際に大まじめに行われていたワケであり、理論検証の重要さを思い知らされる。

 

また、社会科学が工学としてどれほど有益か、実際社会に豊かさをもたらしているのかといった疑問もある。自然科学は上手くいっていると言えるだろう。便利な製品が次々と生まれ、物質的にはどんどん豊かになってきている。社会科学はどうなのか。

 

書いてたら長くなってしまったので、この点については今後また詳しく考えていく。社会工学について、社会科学の性質そのものだけではなく、その知見を利用するシステムといった点からもこの問いについて考えていきたい。