平凡学徒備忘録

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勉強って何の役に立つの?~学問と科学教育批判~

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大学入学以来の疑問

大学に入学して経済学の勉強を始めてからというもの、ずっと抱き続けてきた疑問がある。それは、「経済学って役に立つのか?」ということである。世間一般の経済学への評価といえば「経済学なんてただの机上の空論に過ぎない」「経済学者の言うことなぞアテにならん」「経済はまるで良くなってないじゃないか」「というか文系学部なんて要らないだろ」「当たり前のことを難しい言葉に言い換えるだけの学問だ」「経済学なんて知らなくても生きていけるし、実際ビジネスの現場では使わない」「経済学はお金儲けのための学問だ」「こんなのイデオロギーにまみれた紛い物だ、客観的に議論などできはしない」...などなど、どれも良いものではないようだ。

 

これらの批判が、完全に的はずれならば何も心配はない。色々言われているが、試しにやってみたら全然そんなことはなく、単に実情を知らない奴らがほざいてるだけだと納得できたら、むしろ批判してくる人を単なる無知だと一笑に伏すことができただろう。ただ問題は、実際に勉強してみても、どれも実感としてはその通りだと思えてしまうことである。日々行うのは、難しい字面を覚え、計算問題を解くこと。無間地獄、賽の河原とはこのことかという思いが募るばかりである。実際この記事を書いていてとてもツラい。これらの批判が真実ならば、経済学を学ぶことというのは、まったくの空想をさも真実であるかのように信じるアホの極みである。こうなってくると、まるで自分が途方もないバカであるように思えてくる。

 

というわけで、本ブログではこのテーマについて何回も取り上げてきた。そしてその都度自分の持っている経済学観を言語化し、その本質について理解しようと努めてきた。しかし、どれも再現性や実用性の低さという点において、完全に批判を退けるようなものではなかった。

ちなみにこういう思いを持ち続けていたからこそ、マーケットデザインのような、経済学が実際に役に立っていることを示す事例を見つけると喜びに満たされたものである。自分が存在することを肯定されたような、といえば言い過ぎかもしれないが、ともかくそういった実例を見つけた瞬間は、自分がやっていることが正しいと納得でき、自己肯定感を得ることができたのである。

しかし、やはり日々の生活で経済学の恩恵を実感することはないわけである。この事実に直面すると、すぐにそういった例はほんの少数に過ぎず、結局自分のしていることに疑問を抱かざるを得なくなる。するとまた、どこからともなく冷笑的な影が目の前に立ちふさがる。その影曰く、「なるほど、少しは役に立つことはあるのかも知れない。しかし貴様が今大学でやっていることはなんだ、世の中にどう役に立っているんだ、貴様はどんな価値を生み出しているんだ。説明してみろ。できないのか。ほらみたことか、やはり役に立たんのだ」。

一度こういった考えに捕らわれると、今度は過去の失敗体験が次々と呼び覚まされ、折角築かれた自己肯定感がどんどん潰されていった。こうしてまたすぐに自己嫌悪に陥ったのであった。

科学的問いと工学的問い

ただ、3年間悩み、苦しみ、考え抜いた甲斐はあった。最近霧が晴れたような思いをし、この声を振りきることができるようになったのだ。「経済学とは経済という現象の成り立ちを説明するものであり、理論はその説明体系だ」ということに気づいたのである。

考えたらこんなの当たり前のことであり、実際わざわざ改めて言うほどのことではないだろう。しかし、この考えによって「役に立つか?」という問いに対して、一歩引いた目線で考えることができるようになったのである。

そもそも、「役に立つかどうか」という問いは、「何かしらの価値を与えているか?」ということであり、その価値とやらは主観的なものである。例えばスマホは役に立つものだという意見に反対する人はなかなかいないだろうが、それは例えば、それが情報共有コストの高さによる弊害という問題を解決しているという事実があるからだ。人間は他人との関わりなしに生きることはできない以上、コミュニケーションは必須である価値観を多くの人が持っているからこそ、スマホは役に立つという共通認識が生まれる。ということは、そう思わない人にとっては役に立たないものである。

 

ここで、こういった有用性にまつわる疑問を「工学的な疑問」としよう。工学とは、「基礎科学を工業生産に応用するための学問」のことであり、つまりは科学の知見をもとに、世の需要に応える問題解決手法を探る営みのことである。

工学と対になる概念が科学である。その目的は「この世界はどのように成り立っているのか」「何故こういったことが起こるのか」という客観的事実を探求することにあり、科学的な問いは「役に立つかどうか?」という問いとは必ずしも関係していない。方向性が異なるので、科学的議論と工学的議論は別個に分けて考えるべきである。有用かどうかという価値判断は事実の解釈の過程で行われるものであり、価値が事実自体に内在しているわけではない。「事実はどうであるか」と「事実をどう判断すべきか?」は似て非なる問題である

というわけで、経済学を学ぶというのは事実を確かめる技術、手法を学ぶということであり、その目的は「経済はどう成り立っているか、どう動いているのか」ということにある。そして、そこで得られた知見をどうやって役立てるかという問題は、知見そのものとは別の話である。こういった科学観を一年の頃から持っていれば、私は3年間も苦しまなかっただろう。

現在の教育の問題点

しかし実際の経済学教育では、そういったそもそもを考えずに、いきなり理論の内容を教えられる。つまり、何のために何をすべきなのかの方向性を考えさせられることも、その暇もないわけである。調理の概念もないまま包丁の使い方を教えられるものである。

目的や全体像を最初に示されないというこの状況が改善される様子はない。それに加えて、教えられる内容は年々難しくなっているようである。先日後輩がゲーム理論について教えてくれと頼んできたのだが、その授業資料をみて驚いた。3年生である私が今授業でやっている内容そのままだったからである。学部3年生で習う内容をそのまま1年生でやるのだ。勿論大学生なので、何を学ぶも自由だ。上限などない。それに学部で教えられる内容なぞ初歩的なものであり、何が難しいことがあろうかという意見(クソリプ)もあるだろう。しかし、とはいえ、つい最近まで高校生だった人が理解するのにはなかなか困難であろうと思われる。小学生に微分を教えるようなものだ。これでは勉強に嫌気が差す学生が出てくるのも無理はない。

科学的な議論内容の難しさは、どれほどの厳密さを求めるかによる。例えば今あげたゲーム理論なんかは、ざっくりした話で言えば、やっていることは「相手の行動によってこちらの行動も変わるよね」という事実を確認しているだけである。しかし、例えば「どんな状況ではそれぞれがどういった意思決定を行うか?」「ゲームがある結果で終わる条件とは何か?」といった事まで議論しようとすると、論点が細かく発散していく。また、自然言語だけでは十分に、正確に議論を行えないので、数学という言語を使う必要が出てくる。議論の厳密化が論点の増加をもたらし、それによって議論内容は複雑になり、その議論についていくために要求される知識も増えていく。このようにして科学的な議論は難しくなっていくのである。

他の例として統計学もそうだ。サンプルの平均を求めて、他のサンプルのそれと差異があるかを調べるというのは初歩的な議論である。それで済むこともあるかもしれない。しかし、より厳密さ、正確さを求めようとすると分散についても考えねばならないし、サンプルの集め方やデータの解釈についても問題になってくる。

 

こういった事例を見ていくと、現在の科学教育の問題点が見えてくる。そもそも何故科学的な議論が必要なのか、何故厳密さを追求する必要があるのかといったことについて分からないまま議論の内容そのものについて教えられても、それを学ぶことに意義は感じられないだろう。よく小学生が「何で勉強ってしないといけないの?勉強って役に立つの?」と問うが、以上の議論を踏まえれば、これに対しては「事実を確認したり、真実を知るために、勉強、つまり科学的な議論の内容を知ることは役に立つ」というのが答えの一つとなろう(勿論この問いは工学的なものなので、価値観が異なれば答えも異なってくる)。しかし、周囲は小学生の疑問に答えないまま勉強することを強制する。そしてこれは小学校教育のみならず、それよりももっと厳密に本質を考えるべき大学という場での教育でもあまり変わっていない。

 

もっとも、役に立つかという問いについては、かつて阪大学長のスピーチが話題を呼んだように、多少は提起され、議論されているようである。しかし、有用性について確認できても、まだ問題は残る。「科学はどのように発展するか」「どうやってその正しさを確認するのか」という点について、学生(ここでは、学ぶ人全員を指す)が理解する必要がある。

すべからく学問というのは哲学をその起点としている。哲学の基本的な問いは、「何が真実であるか」である。そして真実を探求するという行為について、その対象で分けたものが学問分野ということなり、その議論の方法やその発展の仕方は学問によって異なるわけである。

ちなみにこの記事で、研究ではなく議論という言葉を用いているのは、哲学が学問の原点であるという理解に基づいているからである。だから国語教育というのは大事なのだ。日本でディベート教育の導入が必要だと散々言われているが、学問そのものの意義やその方法に対する認識が薄い限りは導入されても根付かないだろう。

教育に必要なもの

問題点をいくつか指摘したところで、じゃあ教育にはどのようなことが必要なのかということについて私見を述べていく。具体的なカリキュラムについては、ケースバイケースなので言及しない。

まずは、学問が何故必要なのか、何の役に立つのかということについて学生に考えさせることである。答えの一つは、「学問は真実に辿り着くのに役に立つ」というものである。ナイフの使い方を教えるのは、まずは調理という概念を教えてからである。

次に、「あなたが思い付いた疑問は、大抵既に答えが出ている」という認識を学生に持たせることである。ある疑問を持ったら、先人がどういった議論を行い、どういった結論に落ち着いたのかを、まずはリサーチする癖をつけさせることである。これが知見を利用するということであり、学問が役立っているということだ。知的リソースがまだ未解決な議論に割かれるので、科学がより早く進展する。

そのためには議論の方法や、知識の管理・生産方法について学生が知っていなければならない。そしてこれについては、早い段階で教えるべきである。つまりそれぞれの分野の方法論や、問いの立て方といった議論の作法を教えるということである。また、特に高校以上で教えられる専門的な内容については、現在その学問はどこまで分かっているのかということについて授業で教えておくべきであろうと思う。

 結論、まとめ

長くなったが、私の主張を簡潔に記すと以下のようになる。

 

科学とは真実を知る営みのことであり、科学理論とはモノや人にまつわる現象への説明体系である。その知見をどう活かすかは工学的な議論である。そしてこういう科学的、工学的な議論が学問という名でパッケージ化される。学問的に厳密な議論を行うには、論点の細分化と、議論の正しさを確かめる技術が必要になる。その技術というのが、例えば理論分析の手法や計量分析の手法といったものにある。

となると、勉強、つまり学問を修めること、とは過去に行われた議論の論点やそこでなされた主な主張、結論について知ることであり、同時に、正しさを確かめる技術を知ることでもある。

しかし、こういった学問のそもそもについての理解のないまま教育が行われることがしばしばであり、それが知識軽視や知識の管理という文化への馴染みの薄さに寄与している。これは知識の衰退を招くので改善される必要がある。早い段階で、その学問ではどのように正しさを確かめ、現在どこまで分かっているのかについて教えるべきである。

 

教育政策はいつの時代も関心が高い話題だと言ってよいだろう。その関心の高さゆえ、色んな人がそれぞれに問題意識を持ち、何が必要だ何が不要だと言っている。

「生きた教育」だの「生きた学び」だの、糞の役にも立たない美辞麗句を並べて、それに聞き入っている暇はない。日本の衰退は目に見えており、知識が必要とされているはずである。そういった事を言って気持ちよくなるだけならいいが、それが科学の進展の足を引っ張ってはいけない。ただ残念なことに、どうせ教育政策の流れが急に変わる事はない。であれば、学生はそんな残念なお花畑頭に惑わされることなく、何が正しく、何が必要なのかを常々考えながら、冷静に淡々と勉強すべきだろう。