平凡学徒備忘録

自分が思い付いたことを忘れないために書いていきます。経済学専攻の大学生。

話し合いでは物事は解決しない

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今の日本では、何か物事を決定したり、相手に何かをさせる、やめさせるための手段として暴力を用いることは禁じられており、話し合いで解決することが最も好ましいとされている。交渉に乗らないからといって相手を殴ることや、隣の住人の騒音を止めさせるのにショットガンをぶっ放すことは法律違反である。

ということで、「話し合いで解決だ」となるわけで、いろんな場面において「対話による平和的解決を目指すべき」という意見が支持を集める。

だが、そもそも話し合いで何かを解決することはできるのだろうか。

 

確かに、隣の騒音が気になるからといって負けじとこちらも騒音を出すことは根本的な解決にはならなそうだ。また、政治の場において、環境についての協定を守らない国に入って工場を破壊することも新たな反発を生むだけである。さて、話し合いで何かを解決することはできるのか。

答えは是であり、実際に話し合いが何かを解決することはある。正しく言えば、話し合いによって解決できる問題もある。裁判などはその最たる例である。

裁判を通じてであれば、訴えた相手に何かをさせる、ある行動を止めさせるといったことが実現できる。例えば公害を引き起こしている企業に対して、公害を引き起こすような生産活動を休止させることはできる。

しかし、だからと言って世の中の全ての問題が話し合いで解決できるわけではない。話し合いでISISにテロを止めさせたり、話し合いで大気汚染につながる工場を廃止することはできない。最近、トランプ大統領がパリ協定からの離脱を決定したように、対話だけでは問題が解決しない、話し合いの結果が無視される例はたくさんある。

では、なぜそういったことが起きてしまうのか。それは、対話の結果を無視することによる費用が発生しないからである

裁判の場合、その結果には双方が従わねばならず、もし従わなかった場合、強制的に従わせられる。例えば未払い金の支払い命令に従わなかった場合、資産が特定されていれば差し押さえが行われる。従わなかったからといって、支払額が減る、無くなるといったことは起こりえない(あくまで資産が特定されてればの話だが)。

もしこれが町内会の取り決めや、個人間での約束である場合、簡単に反故されてしまう。いくら騒音発生をやめろと個人が命令したところで、相手が素直に従うとは限らない。従わなくても実害が無いと判断するからである。もしこちらの騒音によって被害を受けている人が、無断で部屋に乗り込んできても、警察に通報すればよい。無視することで費用負担を抑えることができる。

話し合いで物事を解決するには、実際的な働きかけが絶対に必要である。罰則のない法律に意味はないように、行動を伴わない話し合いには意味がない。話し合いで物事を解決することはできない。正確に言えば、話し合い「だけ」では何も解決しない。話し合いでできることは、相手側の考え方、行動原理は何であるのか、双方の意見がどこで食い違っているのか、という双方の問題認識を把握することである。何か問題を解決しよう、相手に行動を変えさせようと思った場合、対話だけで目的が達成されることはほとんどない。実際に行動を変えさせる、こちらにとって望ましい行動をさせるには、議論を通じて得た情報をもとに具体的な働きかけを行うしかない。

住民間のトラブルや公害訴訟であれば、裁判を起こすことで相手の行動を変えさせることができる。環境にネガティブな工場を建てまくる国があれば、何故そういったことをするのかを、対話を通じて明らかにする。もし費用が問題ならば、より低コストなクリーンエナジーの使用を提案することで、現実的、建設的な問題解決ができる。単に批判するだけでは意味がない。

 

加えて、話し合いで物事を解決できない理由にはもう一点ある。それは、相手自身を説得することは基本的に高コストだからである

「何事も対話で解決!」と唱えている方々は、「相手を説得することができる」「対話によって相手を変えることができる」「相手は正しいことに従ってくれる」と思っているのではないだろうか。残念だが、それは議論の機能を誤解している。そもそも、対話を通じて説得すべきは相手ではなく、その対話を聞いている聴衆である。相手を説得することよりも、こちらの味方につく人を増やすことのほうが実際的な効果を持つ。

実際、競技ディベートでは、討論を聞いている観客の評価によって勝敗が決定される。つまり、自分の意見が正しいと評価されるには、相手側を説得しようとしても意味がない。聴衆に自分の意見のほうが優れているということを納得させなければならない。

国会やSNS上で日々行われる論争が不毛だと思う理由はここにある。というのも、相手を説き伏せることが目的となっている人があまりに多い。無論、相手が自分から負けを認めれば、そのやり取りを見ている人に、効果的にこちらの主張の正しさを納得させることができるが、大抵の場合、相手の意見を変えさせることよりも聴衆を味方につけることのほうが低コストで済む。

裁判だって、裁判官にこちらの主張が正しいと思わせたら勝訴であるので、相手を説得することを目的とすることは効率的でない。裁判官を説得することにこそ意味があるので、主張は裁判官に対して行われるべきである。

 

正しい意見が受け入れられるのは、それを正しいと評価する人達がいるからである。聴衆と共有している知識が足りなかったり、そもそも聴衆が相手方の味方であり、結論ありきで討論を聞いている場合には、残念ながらあなたの意見は通らない。だからこそ、何か重要な意思決定を、討論を通じて行う場合には、実際に意思決定を下すシステムに偏向があっては意味がない。

それに討論をする際に相手を説得しにいくことは、大抵相手に不快感を与える。そのため、基本的に説得される側は自発的に行動を変えようとは思わない。特に「説得させられること=負け」と考えている人は、自分の面目を失いたくないがために、あらゆる論点で負けを認めようとはしないし、結論ありきで物事を考え、相手の意見がいかに正しかろうと、聞く耳を持たない。こういう人は、自分を正当化するために議論から降りる、議論とは無関係なところで勝とうとするといった行動をとる。

大事なのは、誰を説得したいのかという視点を欠かさないことである。目的を明らかにしない以上合理的な行動は取りようがない。なので、自分が正しいと思うことを周りに受け入れさせるには、その聴衆に合わせた表現を心がけねばならない。たとえどんな正論であっても、表現が不快だったり、難解すぎると受け入れられない。

議論に客観性が求められるのは、そして客観的な事実に基づいて主張をすべきなのは、聴衆の性質に関係なく共通認識を作り上げられるからである。例えば、ある集合住宅で深夜に楽器を演奏する住人がいたとしよう。その音色が不快かどうかは、それを聞く人による。騒音としてではなく、心地よいBGMとして聞いている人もいるかもしれない。しかし、音量は客観的に測れる。その住人が何デシベルの音を発生させているかは、誰が測っても同じである。これを踏まえると、騒音被害について裁判を起こす場合、「私はこの音が不快だ!だから楽器演奏を禁止してくれ!」と主張するより、音量を測り、それを証拠に挙げたほうが、裁判官も夜の楽器演奏を禁じることを納得しやすいということになる。

 

基本的に、相手を説得して行動を変えさせることはできない。説得されること、論破されることは自分の間違いを認めることになるから、される側にとっては不快であり、聞く耳を持たないだろう。勿論「こちらの話を聞かない頑固者だ」とそういった態度を批判するのは勝手だが、それで何か解決するのだろうか。それに対話が必要とされるということは、利益対立などの何かしらの無視できない問題が生じているわけで、説得されて我慢できるようなレベルではない。

だから対話だけでは物事は解決できないし、話し合いだけでは何も変わらない。話し合いで得た情報から具体的行動しなければ何も解決しない。加えて、話し合いで相手を説得することは現実的ではない。相手を変えるよりも、味方を作るほうが得策である。これはSNS上の単なる論争だけでなく、もっと深刻な問題に取り組む際にも言えることである。こういった性質を踏まえない討論や活動は意味がないと考える。学校でディベートについての授業を展開する場合には、このような視点を欠かさず教えることが、真に効果的な議論の土壌を作り上げる第一歩になると思う。

 

ちなみに、私の高校の担任は法学部出身で、非常に弁の立つ方であった。その授業の中でディベートについて学ぶ機会があったのだが、その授業で紹介されたのがこの本である。ディベートについて手軽に分かるので読んでみて欲しい。

 

ネコと学ぶディベートの本 - 日本一やさしいディベートの教科書 (MyISBN - デザインエッグ社)

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