平凡学徒備忘録

Know your enemy with warm heart and cool head.

「正しさ」を遂行するコスト

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「倫理的に正しくありたい」「理想的な人生を送りたい」「倫理的に正しくあってほしい」...人はいつでもこういった願いを持っているだろう。だからこそ人は罪を犯した人を糾弾するし、一方で自分が非難されるとしばしば自己弁護や正当化を試みる。

しかし、倫理的な正しさというのは時代や社会状勢によって大きく異なる。よって常に「何が正しいのか」を巡って争いが起こる。かつてはそれが、例えば宗教戦争という形を取って発生した。しかし現代では、武力による解決は許されないという共通理念と情報技術の進歩により、それらは言葉による争いに変わった。SNSで度々起こる炎上とそれにまつわる様々な論争というのは、現代版「正しさを巡る争い」の現れだろう。

 

現代では「人間は自由であるべきだ」「あらゆる人は人として尊重されるべきであり、差別されるべきではない」「武力による解決は避けるべきだ」というのが、最大公約数的な正しさであろう。勿論犯罪者に対する刑罰や自由意思の有無など、これらの立場が必ずしも正しいとは言えない状況もあり、その都度また論争が起こる。

そして、最近そういった正しさの揺らぎを様々な場所で見かけるようになったと思う。例えば成人向けコンテンツを含む表現や性的マイノリティーにまつわる問題だったり(今ピットレディ廃止の話が盛り上がっている)、核廃絶にまつわる問題だったり、移民にまつわるものだったり。ポリティカルコレクトネスという言葉の広まりはこういった問題の広がりが背景にあってのことだろう。

今回はそういった問題それぞれに言及する訳ではなく、そういった論争がしばしば見過ごしがちなものについて述べていく。その見過ごされがちなものとは、タイトルにもある通り、倫理的な正しさを実践するコストについてである。

 

例えば菜食主義という立場がある。ざっくりまとめれば牛や豚などの動物にも、人間と同じく生きる権利を認め、肉食に反対する立場のことである。確かに、人間以外の種にも痛覚や感情があることは分かってきているし、人間は他の種を殺してよいのか、それは倫理的に許されるのかと問われたら正当化をすることはかなり難しいだろう。何を隠そう、筆者自身も小学生の時分、チキンフィレオにされた鶏に同情して号泣したことがある。

 

 

これらの意見を聞くと、倫理的に自分の行為を正当化することが難しく感じられるだろう。生まれながらにして罪を背負っていることになる。

しかしこれらの意見は、理想としては正しくも、それを実践するコストを無視しているような気がしてならない。菜食主義については、実際に肉食を全くせずに生きている人もいるので、理論的には実践可能な倫理ではある。しかし、実際にはかなり経済的、心理的コストがかかる話であろう。特に低所得者にとって野菜は高価であり、日々生きるために必要なエネルギーをすべて野菜で賄うのはかなり厳しい。

勿論、それらはいくらコストがかかろうと実践されるべきだという主張ができる。倫理的に間違ったことはすべきではなく、コストがかかるからといってそれを行うのはエゴであるという批判ができる。

 

とはいえ、現実のコストを無視して実践を押し付けるのは逆に倫理的にどうなのだろうか。低所得者が肉食を避けるあまり体を壊し、医療コストを負担せねばならず、よって更に低所得な状態に陥った場合、倫理的に問題なし言えるだろうか。

この話は、貧困からのサクセスストーリーの過度な美化、障害者ポルノといった話とも関連づけられる。身体的、精神的、経済的、社会的ハンディキャップを持った人がそれを克服し、頑張る姿は応援されるべきだ。逆にそういった障害の前に絶望を抱き、諦め、自堕落な生活を送る人たちには非難の矛先が向けられるだろう。「あの人は頑張っているのにお前はなんだ」という声が投げられることもあるだろう。

しかし、そういった障害を乗り越えるコストは、当事者以外には到底わからない。例えば貧困に陥っている人はコスト、精神的負担を既に多く背負っているということが行動科学で分かっている。つまり何か特別なことをしているわけではないのに常に心理的コストを背負っている状態なのだ。これが、貧困層が必要な手当てや福祉を受けられない理由である。こういった負担は判断能力に大きく悪影響をもたらす。障害を乗り越えるのは、一般的にはかなり困難なことなのだ。

 

このように、理想を掲げてそこから外れた人を糾弾するのはよくあることであるが、こういった理想の押し付けは問題を解決しないどころか、糾弾された人が潰れるだけという結果に陥ることがしばしばだ。Twitterでは子育てに関する恨みつらみが日々呟かれているが、 こういった理想の押し付けへの反発がしばしば垣間見える。

倫理的に正しいと思うこと、理想的なことを実践できている人は、自分のその正しさから人を非難する前に、その実践コストについて考えてみてほしい。そして、批判するだけではなく、どうやったらそのコストが発生しにくい環境を作れるのか、また、間違いを犯しにくい環境をどうやって作るかを考えた方が、社会的によいことだろう。それこそ真に建設的な意見であると思う。

勿論、倫理的に正しくないことは避けられるべきだ。貧しくとも窃盗は罪であるし、相手にどんなに憎いことをされても殺人は犯罪だ。正しさを貫徹できる人はいるし、道徳的に間違いを犯してしまった人は非難されるべきだろう。加えて、何が正しいのか、何が理想なのかを巡る議論は不可欠である。

しかし、非難して終わりではなく、そもそも色んな人が貧困に陥らない環境をどうしたら作れるのか、憎しみをどうやって解消すべきか、または殺人が起こらないようにするにはどうすべきかといったところまで議論を発展させない限り、問題は永久に解決しないだろう。