平凡学徒備忘録

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革命家YouTuberから考える~何故勉強をすべきなのか~

そもそもなんで勉強ってするの?

つい最近、ある小学生YouTuberの「算数は電卓でやればいい、漢字はググればいい。学校で勉強しなきゃいけないわけではない」という趣旨の発言が話題になった。

abematimes.com

こういった意見がメディアで取り上げられ、SNS上では色々な反響が見受けられた。

この意見そのものについて言えば、誰もが子どもの頃に一度はこういう事を思っただろうと思うので、発言主であるYouTuber自身を批判するのはお門違いだと思う。それに、彼は「学校でやることだけが勉強じゃない」と言ってはいるが、勉強それ自体は否定していない。とはいえ、電卓やグーグルを使えることで解決できる問題は限られているし、正しい判断ができるわけでもないことは理解していればいいのだが。

また、テレビやSNSでこの話題を見た子どもたちも、親や周りの大人に同じようなことを言ってるだろう。彼の発言を「勉強する意味がない」という意味に誤解していることも考えられる。私も実際に、塾講師のバイトをしていた時にこういったことを生徒が言っているのを見たことがある。

この話題から考えるべきは、発言主がどうこうといったことではなく、こういった子どもの考えに大人がどう答えるかだろうと思う。

 

繰り返し述べておくが、少年YouTuberの趣旨としては、「学校でやることだけが勉強じゃない」というもので、勉強の意味自体は否定していないのだが、今回は、そもそもの前提である「何故勉強する必要があるのか」について意見を述べようと思う。

ちなみにこの話題が立ち上ったあとに太宰治がこの考えを論破するみたいなツイートが流れてきた。

7月15日現在十万以上のリツイートを集めてたのを見るにつけ、世の大人にとっては太宰治のこの考え方は新鮮だったのだろうことが伺える。「今や算数は電卓でできるし、漢字はググれば出てくるのに、何故学校で勉強しなきゃいけないの?そもそもなんで勉強しないといけないの?」という意見に対して説得力のある意見をあまり持てていなかったのかも知れない。

ただ、正直この論理で子どもが納得するとは考えにくい。ツイートに載ってた文章だけの論旨は「勉強で習った内容は忘れても、勉強することが無価値になるわけではない」というものだったので、質問に対する回答としては微妙にずれているためだ。

さてここで、一人の大人として勉強の意味について自分なりの意見を述べる。勉強の意味を見出せないでいる学生や、子どもに質問を受けて上手く返しが見つからない大人たちの参考になればいいと思う。子どもがいるわけでも子どもが身近にいるわけでもないが、自分の意見を目にしてもらう機会を作るのに、直接会う必要がないのがSNSの利点の一つである。また、今回は勉強の意味を考えるのであって、学校の意味とかあるべき形みたいな論点はまた別の機会に考えていこうと思う。

勉強の意味は何か

「勉強の意味は何か」と問われれば、「間違ったものをはじいて、勉強は正しさを探求するための判断材料や判断基準を身につけるために必要である」と、自分なら答える。とても単純な答えである。

マスメディアやSNS、Webサイト、雑誌、本などで日々目にする言説の中には、結論ありきで組み立てられた分析やポジショントーク、セールストークプロパガンダが溢れている。実際に、ニセ科学に基づいた商品とかインチキ医療、胡散臭い金融商品の話はいつの時代も尽きない。それっぽい単語を出せば人は簡単に騙されてしまうものである。そういった怪しいものを勧められたときに、自然科学や社会科学の知識があればお金を無駄にすることもないだろう。また、騙される心理状態や法律、交渉についての知識なども、騙されることを防ぐ、または騙されたとしても被害を最小限に抑える助けになるだろう。

勉強することのもう一つのメリット

また、勉強することで視野が広がる。例えば、今僕の目の前にはコーヒーの入ったマグカップが一つあるが、知識があれば、マグカップ一つにいくらでも話の切り口を思いつくだけでなく、それに答えることができる。材質に注目すれば、マグカップを陶磁器とガラスとプラスチックなどの異なる素材で作った場合、コーヒーを飲んだ時の感じに違いが出るのだろうかとか、冷めにくくなったりするのだろうかなどの疑問が思いつき、それに答えを出すことができる。作られた工程を切り口に、持ち手はどのように作れば頑丈で壊れにくくなるのかとか、これを効率的に生産するにはどういう作業工程を組めばいいだろうかとかの疑問が思いつく。歴史という観点を持ち出せば、現在の形に落ち着くまでにどのように形が変わってきたのだろうかといったことに思いを巡らせることができる。こういった疑問を思いつき、それを解消していく途中で、更に知識がつくだろう。

こういった疑問を思いつき、それを解消していく過程で知識を身につけていくのは、小さい時に図鑑を夢中で眺めていた時のように、とても楽しいものだ。この楽しみを重ねていくことで、世界への解像度を自由に調整できるようになる。

楽しいだけでなく、視野が広がれば、発想が生まれやすくなる。発想の切り口が多いのだから当然だ。発想の切り口をたくさん持つことが、いわゆる問題を色んな角度から考えるということである。多角的に問題を考えることで、思わぬ解決方法が思いついたりするものである。

今まで色々語ってきたが、とはいえ、会社に入って働くようになったらそんなに頭を使うことないだろうと思っている子どももいるかもしれない。「自分は学者になるつもりもないし、今やってる数学やら国語やらは社会に出て使う場面ないだろ」というのが多くの子どもの思うところだろう。しかし実際のところ、働く際には頭を使うことが山ほどある、というか、頭を使えば効率的に物事を進めることができる。世に溢れる仕事というのは何も考えないでこなせるほどつまらないものではない。いわゆる単純作業であっても、効率化の余地はいくらでもある。いい仕事をするために、社会をより良いものにしていくために、勉強することは無駄にはならない。

以上、勉強することの意味を述べてきた。ただ、これはあくまでも教育を考える前提を述べているに過ぎないし、また、件の少年YouTuberの意見の是非について論じたものでもない。論じる前の準備みたいなものである。なので、これを皮切りに、学校のあるべき姿とか、何を目的に教育するかといった議論を続けるつもりである。

 

興味があってnoteを始めまして、そこにこの記事の続きにしていたものを書きました。革命家YouTuberについての僕の立場や、教育の大切さ、彼に賛同してる薄っぺらいインフルエンサーへの批判なんかを書いています。

note.mu